2022年の大河ドラマは「鎌倉殿の13人」と発表されました。真田丸の三谷幸喜さんが脚本だそうです。真田丸、とても楽しく観ました。鎌倉殿の13人とは?そして、その13人の一人、和田義盛とは?
これから書いていこうと思っています。
鎌倉殿の13人とは
鎌倉幕府は初代将軍頼朝の死後、二代将軍頼家をサポートする会議体として、13人の合議制なるものを発足させました。その13人の武将を鎌倉殿の13人と呼び(のだろうと推測)、そのメンバーの一人が大河ドラマの主人公北条義時、そして、和田義盛もその一人でした。大河ドラマでは、この13人のメンバーを含め、多くの登場人物が活き活きと描かれることでしょう。
和田合戦とは
それは、1213年5月、鎌倉市内で繰り広げられた大合戦、鎌倉幕府を二分した権力闘争でした。
初代侍所別当、和田義盛の率いる一党と北条義時を中心としたグループとの権力闘争、時の将軍源実朝が北条方についたため、和田一族の謀反と言われてもいます。
和田合戦の原因
この和田合戦、改訂三浦一族‐その興亡の歴史‐三浦一族研究会では、北条義時の傍若無人の言動に激怒して、北条氏への私恨から挙兵したとされています。ですが、本当にそうであったのか?私は疑問を持っています。当時すでに67歳の和田義盛がそのような挑発にのるでしょうか?
三浦一族の研究(吉川弘文館)高橋秀樹著には、
和田合戦の原因は、義盛対義時という二人の関係ではなくて、その前の二月に起こった、百人以上の御家人が関与した事件も含めて、義時・大江広元らの幕府主導者と若い世代に擁立された旗頭にすぎなかったのかもしれない
またこうとも書かれています。
こうして『吾妻鏡』の記事を検討していくと、(和田)義盛が(北条)義時に追い詰められていく内容をもつ部分は、義盛の義時に対する恨みと反発から和田合戦が起こったとするストーリーに沿って、後から付け加えられた記事だと判断される。ただし、義時が屋地を拝領したことまでもが創作であるのではなく、そのさいのやりとりの部分が、ある意図に沿った形に脚色されている。なお、ここでいう「ある意図」とは、『吾妻鏡』全体に関わるものではなく、この和田合戦の原因についての書きぶりに限定されるものである。
本当のところはどうだったのか?
これから、和田合戦や和田義盛について書いて行こうと考えています。