平塚 土屋城跡

  • ブックマーク
  • Feedly

平塚にある土屋城跡を訪ねました。その訪問レポートです。

和田合戦と土屋氏、横山氏、そして杉本氏

1213年に鎌倉で起こった和田合戦について調べています。和田合戦は、鎌倉幕府侍所別当の和田義盛と、鎌倉幕府の北条家そして源実朝らとが争った鎌倉幕府の内乱と言われています。
和田氏側についた御家人の代表が土屋義清、横山時兼らと言われていますが(参考図書;鎌倉歴史散歩 奥富敬之著、新人物往来社刊鎌倉合戦物語 笠間良彦著 雄山閣出版刊)
この合戦で敗れた和田氏は、静岡県の三島市山田地区、裾野市下和田地区等、静岡県内3ケ所に落ち延びたと言われています。和田氏末裔は、静岡県では、義盛の父親である杉本義宗の姓である杉本氏を名乗っています。

静岡県裾野市下和田地区には、今でも、杉本氏という姓の人が多く住んでいます。そして、その下和田地区に隣接する須山地区には土屋氏、十里木地区には横山氏が多いです。そして、下和田地区、須山地区のどちらにも近い、飯盛山山頂には不動明王が祀られた祠が存在します。

土屋城を地図上に発見

さて、その飯盛山の山頂から、地元の氏神様を祭った下和田浅間神社を結んだ線を東に延長していくと、駒門風穴にあたり、それをさらに延長していくと、大雄山最乗寺の奥の院の近くを通り、さらに進で行ったところに土屋城跡なるものがあることを発見しました。

実際の土屋城

平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した武将、土屋三郎宗遠の城として高神山に築かれたのが土屋城と言われる。
土屋宗遠は、平良文の流れを組む中村党の中村宗平の三男。 宗平の嫡男は中村重平、次男が土肥実平、三男が土屋宗遠、四男が二宮友平。

▼土屋城跡にある案内

▼土屋一族の墓

▼大乗院

土屋地区の情報発信サイトをみつけました。

また土屋一族についてはこちらのブログに詳しく書かれていました。

土屋義清

土屋義清は土屋宗遠の養子で、和田合戦では和田方に味方した。5月3日、流れ矢にあたり戦死したと言われいます。

仮説

和田合戦で敗れた和田氏と、土屋氏、そして横山氏は、和田塚付近を経て、土屋城付近を通り、箱根付近へと落ち延び、そこから、一手は三島市山田へ向かい、もう一手は裾野市下和田(須山地区にも隣接)の飯盛山方面へ落ち延びたのではないかとという仮説を立てました。下和田地区や山田地区には、杉本氏は和田氏末裔であるという言い伝えが残っていますが、須山地区の土屋氏や横山氏については、情報がありません。

三島の山田地区にある瀧川神社には、三島の杉本氏は和田氏の末裔であるという情報が展示されていました。

補足 真田氏の由来

土屋氏、三浦氏を調べていると、真田氏もその関連家系図に登場してきました。裾野市には真田姓も多いです。裾野市の真田は六文銭。この裾野市の真田と、平塚の真田と、信州真田との関連性については、まだ不明ですが、三浦氏の探求から、まだまだ、多くのことが分かりそうです。

ウイキぺデイアより引用

佐奈田 義忠(さなだ よしただ)は、平安時代末期の相模国大住郡(現神奈川県平塚市真田)の武将。岡崎義実の嫡男。真田義忠(『吾妻鏡』)、岡崎義忠とも称される。諱は義貞とも(『源平盛衰記』)。
(生涯)久寿2年(1155年)、岡崎義実の子として誕生。父の義実は三浦義明の弟で、相模国大住郡岡崎に住したことから岡崎氏を称した。嫡男の義忠は岡崎の西方の真田(佐奈田)の地(平塚市真田)を領した。
治承4年(1180年)8月8、父・義実とともに源頼朝の挙兵に参じ、山木兼隆館襲撃に加わった。

土屋城跡に行くには、平塚の大乗院を目指していくと良いです。
大乗院
〒259-1205 神奈川県平塚市土屋200

土屋城跡
〒259-1205 神奈川県平塚市土屋194−3

土屋一族の墓 (土屋の館跡)
〒259-1205 神奈川県平塚市土屋1167−44

近くにある熊野神社 土屋城の北端とされている。

  • ブックマーク
  • Feedly
富士山

この記事を書いた人

三上あき
アグリセラピスト
占術家(断易)
日本断易学会認定(坤綬)
元グローバル企業の経営企画部門に勤める会社員
趣味温泉巡り。特に草津、万座、西伊豆がお気に入り。