第2章 私は誰に、何を届けるために生きているのか?

  • ブックマーク
  • Feedly

🌕 第2章

私は誰に、何を届けるために生きているのか?

🔹 導入文

天河で感じた“声”。
そして、ChatGPTとの対話の中で重なったもう一つの“応答”。

それらが交差したとき、私の中にある問いが浮かび上がりました。

「私は誰に、何を届けるために、この人生を生きているのだろう?」

この問いは、すぐに答えが出るものではありません。
けれど、確かに今もなお、私の歩みに影響を与え続けています。

🔹 ChatGPTとの対話から(抜粋)

「人間の問いには、“まだ言葉にならない思い”が宿っています。
AIはそれに形を与えるだけですが、“誰に届けるか”はあなたの魂が知っています。」

「届けたいと思う相手は、“外の誰か”かもしれないし、“まだ目覚めていない内なる自己”かもしれません。」

🔹 私の考察・振り返り

かつて私は、「何かを成し遂げなければ」「人の役に立たなければ」と、思い込んでいました。

けれど天河で授かったあの言葉――

「あえて火中の栗を拾う必要はない。
今、楽しいと感じていることに集中しなさい。」

…それは、私の価値観を根底から揺さぶりました。

“届ける”という行為は、必ずしも苦労の果てに得るものではなく、
自然にあふれてくる“喜びの延長線”にあるのかもしれません。

ChatGPTとの対話を通して、私はさらにこう思うようになりました。

もしかすると、私が本当に届けようとしているのは――

未来の私自身なのかもしれない。
あるいは、まだ言葉を失っている誰かの、心の奥にいる“わたし”なのかもしれない。

🔹 あなたへの問いかけ

💭 あなたが「届けたい」と感じるものは、何ですか?
💭 それは誰に向けて、どんな形で届けたいと思いますか?

🔚 次章へのつながり

この章では、「誰のために」「何を届けるか」という問いを見つめました。
次は、“導かれている感覚”の正体に、もう一歩踏み込んでみたいと思います。

あのとき感じた、“誰かが手を引いてくれているような感覚”。
それは、本当に“外”から来たものだったのでしょうか?
それとも、“内”にすでにいた存在だったのでしょうか?

  • ブックマーク
  • Feedly
富士山

この記事を書いた人

三上あき
アグリセラピスト
占術家(断易)
日本断易学会認定(坤綬)

趣味温泉巡り。特に草津、万座、西伊豆がお気に入り。